レンの道 (文章:管理オーバル魔ペットJoya)
ファルコムのゲーム・英雄伝説『空の軌跡』シリーズ&『零の軌跡』のバレを含みますのでご注意ください。 2011.4.23
2011.5.1 文章の一部を修正・加筆
2011.6.19 さらに修正・加筆
4 「罪」とは何か
@世界の罪
殲滅天使<激唐ェ、執行者として冷酷にこなしてきた任務を、世間は「罪」と言うかも知れません。
ですが、私は、それを「罪」とは呼びたくありません。
これは、見なかったことにする、という意味ではありません。「罪」という言葉が似合わないと思うだけです。
百歩譲って「罪」と言うにしても、「彼女が罪を犯してしまった」ではありません。
飽くまでも「大人達(世界)が彼女に罪を犯させてしまった」です。
だからと言って、私は「レンは過去に酷い運命に見舞われたから、何をしても許される。」という考えではありません。
しかし、「許されない」とも思いません。
執行者レンのしてきたことを許されるの許されないのと誰かが断ずるのは、烏滸がましいと思うのです。
「罪」という言葉は、「罰」「償い」という言葉を連想させます。
誰かがレンに「罰」を与えたり、「償い」をさせるなどということも、烏滸がましいことです。
そんなことをさせられるほど偉い存在は、現世は勿論、霊界だの天界だのを探しても、いないと思います。
レンが自分で反省したり、償いたいと考えるようになるなら、それはそれでいいと思います。
前述(レンの道1)の通り、幼いレンは「楽園」という名の地獄に拉致され、何が起きているか理解出来ぬまま弄ばれました。
抗う力を持たぬ小さく弱い存在だったレンに地獄を見せた「世界」「社会」「大人たち」というものを、私は許せません。
「罪」と言うなら、執行者レンの行動をどうこう考えるより先に、世界(大人たち)の罪を正したいという考えです。
「世界」とは人間全体、汚い大人たちの社会を指しています。
「楽園」のような忌まわしい組織の存在を認め、利用し、あるいは見て見ぬふりをした者たち。
さらには、そのような存在を知らずに「平和」に暮らしていた者たちも、「関係ない」と言って目をそらすのは無責任です。
A残酷さの理由
レンが執行者として、数多くの命を奪ってきた「らしい」ことは、ゲーム内での説明や、関連の出版物から分かります。
しかし、多くの「罪もない」命を奪ってきた、と表現するのには、私は抵抗を覚えます。
確かにレンは容赦の無い行為をしてきたのかも知れません。
ですがそこで「罪もない命を…」と言うと、無感情な殺戮者のように印象づけられます。
それが事実ではないか?と言われそうですが、私は、そう単純に表現してしまってはいけないと思います。
既に様々な経験を経て考えの深まった大人であったら、悪意ある救いがたい行為とも言えます。
が、レンの場合はまだ10歳を越えたばかりだし、「背負わされてしまった闇」によるものでもあります。
「罪もない」ではなく、「かかわりのない」という表現なら、分かります。
一般の人に「罪が無い」と言うならレンにも「罪は無い」。
レンに「罪がある」と言うなら、だれにでも「罪はある」…
どんな命も「罪もない命」と言い切れることはないというのが私の考えの根底にあります。
だからその表現が嫌いなんです。
「罪」という言葉自体、使いたくない私ですが、あえて「罪」について考えてみます。
強いて言うならば、私の考えでは、誰かの命を奪ったり怪我をさせることだけが「罪」ではありません。
心を傷つけること、何かの尊厳を踏みにじること、人を陥れること、それらを意識せずにすることさえも「罪」でしょう。
つまりある程度の年数を生きている者なら、大なり小なり、日々多くの「罪」を犯してきていると思います。
何が大きな罪で何が小さな罪かということは、心の問題としては、法律で決められているのと同じとは言えないと思います。
例えば、「過ちで人の命を奪ってしまった」のと、「故意に悪意ある言葉で人を傷つけた」ということを比べるとしたら。
法律では、前者の方を重く罰するのでしょうが、個人的には、後者の方が重い「罪」だという認識です。
悲しみの大きさ、という点で論ずるとしても、私は、前者の方が大きいとは言い切れないと思います。
比べるようなものでもないと思いますが、ここでは心の被害の重大さを訴えたいために例に挙げてみました。
心の被害は目に見えないし、証拠なども探しにくいし事実関係も分かりづらいから法律ではあまり扱われないのでしょう。
しかし悪意があるか無いかということは、世間で考えられている以上に重要だと私は思っています。
また、悪意が無くても、何気ない言動で結果的に人の心を傷つけてしまったら、それも重大な「罪」と感じます。
ところが大抵、その言動をした本人は気づかないまま、のほほんと気楽に穏やかに光の中で生きてしまう。
犠牲者だけが闇をかかえて生きていく、そんな理不尽なことが多い世の中だと感じています。
レンの話に戻りますが、「かかわりのない」弱い一般市民を手にかけてきた描写は無かったように思います。
ただ、ウロボロスの執行者として活動している以上、そういう仕事もしてきたのだろうと想像できます。
レンは「人の悲鳴を聞くのが好き」と言います。人の命を虫けらのように扱う、そんな態度を見せます。
しかし、そんなことを本当に好きで行っているのかどうか。「命令されて仕方なく」ではない、それは確かです。
発している言葉からすれば、明らかに残酷な行為に喜びを感じて、自分の意思で実行しているのだと思えます。
でも、それは「人の命を奪いたいから」ではなく、「何者よりも強い自分」「世界を自由に引っ掻き回せる自分」
そんな自分を感じていたくて、信じていたくて。そんなどうしようもない衝動が残酷な行為に繋がっているのでは。
「楽園」では、自分は何の力もなく、振り回され翻弄されるだけだった。
そんな弱い自分を否定したい、痛いことをしてくる大人たちを見返したい、今なら自分は何でもできる。
今なら世界を自由にできる。今の強い自分なら。
ですが、どんな時でもその力を行使するというわけでもありません。
レンは、どうしようもない憎悪の対象であった筈の「両親」を断罪していいと言われてさえ、それをしなかったのです。
それは、レーヴェがそばにいたからこそだろう…いなかったらどうしていたか…という考えも浮かびますが。
しかし、「斬ってもいい」と提案したレーヴェに対して「にせものに興味はない」と返したのはレン自身の意思です。
そこに様々な苦い思いが渦巻いていても、色々なものを拒絶し破壊したい衝動が潜んでいたとしても。
それらを全て押さえ込んで、「自分は生まれてはいけなかった存在」という悲しい思いまでも飲み込んで。
そんなレンが、無差別に積極的に人々を襲って、奪わなくていい命まで奪ってきたとは思えません。
もし奪っていたとしても、そこにあるのは「気に入らない」「じゃま」「みんな消えちゃえ」といった無邪気な衝動。
自分の「痛み」と、人の「痛み」が、レンの中でうまく繋がっていない、そんなズレが生む、幼いゆえの残酷さ。
子どもはみんな残酷さを持っている。普通の子なら殺す必要のない虫をバラバラにする程度で済むところを、
レンの場合は人間をバラバラにできる力と、それをするだけの強い衝動を持ってしまったということ。
そして
レンを仕留めようと向かってくる者たちに対しては、レンだって身を守るために容赦ない行動をとるしかありません。
天才だから手加減だってできたかもしれません。実際、そうしていたこともゲーム内の描写から伺えます。
いや、実際はそんな余裕は無かったかも知れません。レンは機械ではありませんから。
或いは余裕があっても、レンにとっては容赦なく力を行使することが、生きる原動力になっていたのではないかと。
レンは本来は、優しい心を持った子だと思います。
ゲーム中、きつく冷たい発言や行動をしていても、それが全て本音の裏返しと感じられることから、そう思います。
本当だったら愛に包まれ祝福され、楽しく笑いながら穏やかに成長するはずだった普通の女の子。
そんなレンを、ズタズタにして冷酷に生きるしかない状況に追い込んだのは「世界」の闇です。
レンにひどい痛みを何重にも与えて、人の悲鳴と、自分の痛みとを繋げる考えを失わせてしまった。
命、絆、そういう大切なものをよく見えないようにしてしまった。痛みと、それを嫌がる感情とで塗りつぶしてしまった。
レンだって、命を奪うのは悪いこと、それを全く分かっていないというわけではないと思います。
分からないふりをしている、というわけでもないと思います。
強い存在としての自分を保つためには、自分以外のことなど考える余地は無いのだと思います。
「教会」関係の人やどこかの兵士と戦う時も、「この人にも家族があるかも」などと考える筈もありません。
だいたい「家族」などというモノ、考えるに値しないし、考えれば自分の心が苛まれる訳だから意識の外でしょう。
「家族」だと信じていたモノが自分を「楽園」に売ったわけですから(『零の軌跡』で真相が分かるまではそういう認識)。
B「向き合う」ということ
以上のように考えると、レンのしてきたこと、そしてこれからのレンに「向き合う」のは、非常に難しいことです。
繰り返しになりますが、レンと向き合うということを考える上で考えなければならない「楽園」について書きます。
「楽園」でのレンは、ただただ弱く、為す術なく強い力に蹂躙されてきました。「自分」を保てないほどに。
それが結社に入って、自分を蹂躙してきた者たちを軽く凌ぐ力を得ました。
世界の闇の渦に振り回され引っ掻き回されるるだけだった自分が、逆に世界を引っ掻き回せるほどの強さ。
レンの精神がその時既に「大人(いい意味での)」だったら、抑えることも出来たかもしれません。
でも当時のレンは、気持ちや力の爆発を抑えてなんかいられなかったと思います。
抑えなどしたら、すぐに闇に呑まれて潰されて「生きて」はこれなかったのではないか。
手にした力を最大限に出して、「強い自分」を感じ、保ち、守ることだけがその時のレンの生きる道だったのでしょう。
レン自身にも、「自分は酷い経験をした子だから何をしても許される」なんて考えは無いと思います。
「どうしようもない衝動」がずっとあり、消すことができないのだと思っています。
何も感じることなく無慈悲に行動しているのではなく、執行者を「演じる」ことで自分を納得させているのではないか。
そんな中でもレンの心は、自分の衝動、葛藤と戦い続けている。油断すれば闇に食われて沈んでいってしまう。
自分を責め立て追い立てる「世界」や「闇」とずっと戦い続けている健気な子です。
いつ心が折れるか分からない、常にそんな危険な状態だと思います。それでも懸命に戦っている。応援したくなります。
だから、レンに「罪を犯したから償いなさい」と言うのは、間違っていると考えます。
そもそも、レンを酷い目にあわせた大人達は、レンに対して「反省する心」の見本を見せることが出来ていません。
あの忌まわしい「楽園」を生んだ組織は、潰れてしまいました。
たとえまだどこかに存続して、誰かが生きていたとしても、彼らは「間違ったことをした」なんて思わないでしょう。
事実を追求しても、謝罪の気持ちも態度も無いであろうと予想されます。
それは、『零の軌跡』の黒幕ヨアヒムや、「楽園」に関わったハルトマン議長などの態度からも分かります。
この2人の名前を書くとき、非常に胸がむかつきます。我慢して書きました。
そのようなわけで、この愚かな大人達から「反省の仕方」「償おうとする心」を学ぶことは不可能です。
大人たちが模範を示してくれないのに、子どもである犠牲者レンにどうしろというのか。
誰もレンに償うことをしない、出来ない。誰もレンに謝罪しない。
謝罪されたって償われたって、レンの心の全てが救われることはありません。
が、人は誰か(何か)に傷つけられた時、その相手に罵声を浴びせるとか、謝ってもらうとか、何か罰を与えるとか。
せめてそういうことがないと、ただ一方的に闇をかかえさせられて、ぶつけ所が無いじゃないですか。
本当なら、とてつもなく残虐な方法で報復したって飽き足りないのに!
ですがレンは、エステルとヨシュアの新しい家族として迎え入れられました。
誰にも謝ってもらわなくても、怒りのままに復讐する相手がいなくても、今後は徐々に癒されていくでしょう。
エステルとヨシュアはじめ、周囲の人々の愛情を受け止めて生きていくうちに、心は良い方向へ変わっていくでしょう。
その中で、穏やかな考え方や、自分を省みることを「思い出して」いくでしょう。
例えば、「執行者」として行ってきた残酷な行為は、人間として間違っていた、とか。
「痛くする人≠ヘ嫌いなのに、自分が誰かに痛くする人≠ノなっていた」とか。
そのように考えることは、今後のレンには必要かもしれません。
ただし、そのようなことを言葉によって説諭し、無理に考えさせようとしても無理ではないかと思います。
強制的に考えさせるのではなく、レンが自ら考えるように導くのがいいのだと思います。
幼い時から理不尽に痛みを与え続けられてきたレンに対して「罪の意識を持て」などと偉そうに言える人間はいません。
レンが自分で気づいていくのが正しいですし、エステルやヨシュアの側にいれば、レンも考えるようになるでしょう。
もしもレンが罪悪感や後悔に苛まれて闇に沈んでしまいそうになった時には、引っ張り上げて包んであげることも出来る。
レンの全部をひっくるめて大好きだというエステル。人の闇を身を以て知っていて、レンを冷静に見られるヨシュア。
この2人ならそういうことが出来るだろうと思います。
これは、何をしても叱らないで甘やかそう、というのではありません。
もちろん叱ったほうがいいことがあったら、そうすることも必要です。
何をしても叱らず「そのうち考えるだろう」という成り行き任せでは、子どもへの教育は手遅れになっていきます。
レンを家族に迎えたわけですから、間違っていることは間違っている、と伝えることは必要です。
例えばレンが、家族になった後でも、人を人とも思わないような言動をした時などには。
一般の子が悪戯や意地悪をした時と同じように叱っていていいのだろうか? という疑問は湧きます。
レンの場合は経験が違う、要因が違う、精神も明らかに一般の子どもとは違いますから。
誰にでもあけすけにものを言う筈のエステルが、レンに対する時だけ緊張して悩んだりしてるのも仕方ないこと。
でも経験が違おうと規模が違おうと、叱り方、接し方で悩む必要は無いのだと考えるようになりました。
本当は一般の子と変わらない、いい所も悪い所もある街の少女と同じ。
エステルも『the3rd』では、そのようなことを言っていました。
むしろレンは知識や分析能力や戦闘に関しては天才でも、人との関係を築くことに関しては全く拙いと思います。
普通に友達をつくって遊んで、普通に家族とお出かけして、愛情を確かめ合えた筈の数年が抜け落ちている。
だから、家族というものがどういうものかさえ、レンの心の中では曖昧になってしまっている。
友達というのはどういう会話をしてどういうふうに遊ぶのか、そんな普通のことが分からない。
天才なのに、人と繋がることに関しては全くの素人。その点では街の子どもに全然追いつけない状態です。
ということは、実は、普通の子と同じというより、普通の子より幼い、手のかかる甘えっ子だということになります。
レンは、本心では「人と繋がっていたい」「家族にしてもらえて嬉しい」という思いが強いでしょう。
ただ、その本心を素直に出すところまでは、まだまだ進んでいないので、解きほぐしてあげることが大切だと思います。
一緒に悩み、一緒に成長していく覚悟があるからこそ、エステルとヨシュアはレンを家族にしたのでしょう。
それこそが、レンと「向き合う」ことだと思います。
新しいあたたかい「家族」に包まれて、心の通じ合う会話や生活を続ける中で、愛情に愛情を返せるようになっていく。
そうして、自分で考えをまとめていくのを見守り、手伝ってやりたい。
そういうふうに、エステル達も考えているのではないでしょうか。
「償う」ではなく、持ち得た強い力を「愛情を返すため」「誰かを守るため」に使うことに向けていければ、それでいい。
急に変われというのは無茶です。まだまだ、自分を保つのに精一杯の筈です。ゆっくり、ゆっくりでいいと思います。
日常的に他愛もない悪戯などをして、エステルに「おしりペンペン」などをされているレンを想像すると和みます。
そんな微笑ましい罪と罰も、本来のレンを取り戻していくためには必要でしょう。
C(これ以降も続きます。準備中)
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